小倉城〜手中におさめるシリーズ〜
やってきました。手中に収めるシリーズ。今回は九州の玄関口、小倉城です。
もとは、戦国末期の1569年に毛利勝信が今の小倉城の場所にお城を造ったのがはじまり。その後1602年に細川忠興(だたおき)が今の小倉城を築城。
細川忠興は相当ヤバいひとだったらしい。
信長のお気に入りで、千利休の弟子。茶道・和歌・能楽・絵画なんかの芸術にも秀でて、越中ふんどしとか日本刀のデザインもしたらしい。しかも正室は美人。完璧かよ。
でも、超気が短かったんだって。しょっちゅう家臣を斬ってたらしい。その数なんと36人。そんで、「あれ?36ってことは三十六歌仙(藤原公任が選んだすごい歌人の総称)じゃね?」ってことで自分の愛刀に「歌仙」て名前つけてたらしい。その発想、どうかしてる、、
しかも、自分の奥さんに見とれてたって理由でその家臣を斬ったとか、、こわすぎ!
「おいお前、今俺の嫁に見とれてただろ!見てんじゃねーよ!打ち首だ!」って感じでしょうか。なんて激しいんだ。
奥さんのガラシャさんも相当波乱万丈な人生を送ってる。ガラシャっていうのはキリスト教の洗礼名。明智光秀の娘さんなんです。
え?光秀の娘?って思うよね。だって、忠興さんは信長のお気に入りだよ。本能寺の変のとき相当ごたごたしたらしい、、光秀は当然忠興も光秀側につくと踏んでたみたいだけど、忠興は完全拒否。表向きはガラシャを幽閉して、光秀の謀反とは無関係ですよーってアピール。これで他から疑われることもなく、ピンチを乗り切ったみたい。
本能寺の変のときも、内緒でキリシタンになったときも、忠興はガラシャと離縁しなかった。愛妻家だったらしい。まあそのあたりは割愛。
北九州にある小倉城は、本州と九州を結ぶ場所。とっても賑わってたんだって。
小倉城は唐造りの天守閣!4階と5階の間に屋根の庇がなくて、5階が4階よりも大きいんだよ。でも1837年に火災で天守閣は燃えちゃった。2年後に再建されたけど、天守閣はされず。
幕末には長州藩を攻める基地みたくなるんだけど、結局小倉城撤退。
1959年(昭和34年)に市民の要望で天守閣を再建したんだけど、なんせ資料も写真も残ってない。つまり、勝手に想像して造った天守閣だから、もしかしたら全然違うかもしれないんだよね。
かっこいいお城だと思うけどね!
そんな小倉城も!
手中に収めてしまいました!
てーーーーーーーーーん!
車で連れてってくれたひろのさんかよさんと共に!
写真の服装が夏です。今更書いたのかよ!ってつっこみが聞こえてくるようだけどおどろかないでね。まだまだ書いてないだけで手中に収めたお城あるからね!
お城すきなひとも
溜めてんじゃないよ!ってひとも
ぽちっとお願いします!
城シリーズは歴史の記述とか、「ほんまでっか〜」な気持ちで読んでくれるとうれしいです!
手中に収めるシリーズ久しぶりすぎて、てーーーーんを忘れるところだった。。